6.自己顕示欲の塊
大学で仲のいい女の子が出来た。ショートカットで黒髪、嫌味もなく僕の理想の女性像にかなり近い女の子だ。もちろん可愛い。
この間、その子と授業の空きコマの時間を過ごしていた時のこと、Instagramの話になった。僕は恥ずかしい話、本名でInstagramのアカウントを持ち、何気ない日常の風景、作った料理を投稿している。しかし、その女の子はアカウント自体そもそも持っていないと言うのだ。
何故かと理由を聞いてみると
「なんのために写真を投稿して他の人に自分の生活を見せる分からない」
らしい。確かに…言われてみればそうだ。
Instagramに写真を投稿しても報酬は得れないし、何か優待されるものがある訳でもない。得られるものなんていくらかの「いいね」と「コメント」くらいだ。
僕は帰り道に考えた。
僕はなんのために人へ私生活を晒しているのだろう…?どんな写真を投稿してたっけ…?
僕が投稿した写真を見たら大体が自分の作った料理、すごい場所に行った投稿だった。多分それを僕は「自慢」したいのだろう。そして周りからの「賞賛」を得たい。
僕はこの世にいる人間という生き物は自己顕示欲の塊だと思っている。誰もが心の奥底に「目立ちたい」、「自慢したい」という気持ちを少なからずは持っているはずである。
そんな人間にとって、Twitter、InstagramなどのSNSは自己顕示欲を満たす素晴らしいツールだ。
目立ちたくない人間なんてこの世にはいない。例えば現実世界では目立とうとしなくてもバーチャルなウェブ上の世界、2次元の世界では目立とうとしているはず。
服を着飾るのも、おしゃれなカフェに行くのも全部自己顕示欲を満たすため。
そんなことを思って僕は「カフェなう」とあえて向かいに座る女の子が写るように撮った写真をInstagramに投稿した。
5.目立ちたがり
僕はちっちゃい頃から目立ちたがりだと思う。
でも結果的にはあんまり目立てない。多分そういう星の元に生まれてるんだと思う。
幼稚園の頃、僕は「オズと魔法使い」でオズ役がやりたかった。もちろん僕はジャンケンで負けてライオンという脇役になった。
小学校の頃も目立つぞ、目立つぞと思いながらジャンケンに負けたり、人気者に目立つ機会を取られたりして結局目立てずにいた。
いや、今も実生活ではそんな感じだ。目立っているような目立っていないような微妙な立ち位置。文化祭で漫才とかコントとかやっちゃうけど目立たない位置。それが僕だ。
でもそんな僕にもちょっとだけ目立てる場所を見つけてしまった。そう。ラジオだ。ラジオで読まれている時だけは何だかすごく自分が目立っているという優越感に浸ることが出来た。だから今も僕はラジオに投稿を送る。読まれたら喜び、読まれなかったら落ち込む。かなり落ち込む。
でも最近僕は思う。自分って何の為にラジオ聴いているんだ…?と。ラジオが面白くて聴いてたのにいつの間にか読まれる読まれないで振り回されてしまっている。
しかし、最近は読まれても読まれなくても気にしないようにしながら投稿している。そうすると不思議なもので「読まれなきゃ、読まれなきゃ…」と考えていた頃よりも採用数が格段に増えている。
今まではやりたいこと、成したいことの背中を追ってた僕だったがそれを気にせず生きていたらいつの間にかそのやりたいこと、成したいことを追い越し、僕がむしろ追われてた。と言うよりもやりたいこと、成したいことが僕についてきたのだ。
要するに僕の言いたいことは目立ちたいけど目立てない諸君、目立とうとするな。目立とうとせずに自然に生きてればそのうち勝手に目立つ時が来る。
ラッパー風にいえば「人生、楽しんだもん勝ち」なんだから。
4.変なA型
僕はA型だ。父も母もA型で純血のA型。
しかし、行動は後先を気にせず大雑把。壁の時計が斜めでも気にしない。部屋も汚く、ほっとけば服も部屋に山積みになっていることが多い。
そう。僕は変なA型なんだ。
そんな変なA型の僕でも許せないことがある。食べ物に関してだ。例えば、お茶を飲んだコップを洗わずにジュースを入れる。とか、バイキングで大皿にサラダ、肉料理、デザートを一気に取る。ありえない。弁当にフルーツと一緒に食べ物が入る。ありえなさすぎる。
何が違う?部屋が服まみれ、ゴミが落ちてる空き缶が置きっぱなしと何が違うんだろう…?何かをやったらやりっぱなしの部屋と何が違うのだろうか…?
少し考たら答えは意外にもすぐに出てきた。
僕が変に普段から気にするものは全て僕の口に入る食べ物、飲み物、道具関係の物なのだ。
僕は自分の周りのものはどうでもいい。だけども自分の口の中に入るものだけは清潔、かつ自分以外が触れないでいて欲しい思っているのだ。
話は変わるが僕は自己紹介で血液型を言われる機会がある時にほとんどいつも「嘘ー!O型とかじゃないの?」と言われる。僕はいつもそれを言われる度に表面上は笑うがムカムカしている。
血液型…そんなもので本当に性格なんて決まるんだろうか…?人間の性格なんて無限にある。人それぞれの性格があるのだ。それをA、B、O、ABの4つという小さな区切りで収めている時点でおかしい。それが僕の持論だ。
だから僕は人を血液型では判断しない。AB型の人に会っても「へぇ〜!AB型!で?」が僕の本音である。「AB型!珍しいねー!変わった性格なの?」と思うやつの方がよっぽど性格がイカれてるしひねくれていると思う。
血液型なんかで判断されてたまるか。僕の今日言いたいことはそれだけだ。
3.成長なのか?
僕は最近ものすごくハマっている食べ物がある。もちろんチーズなんちゃらとかそういったありきたりなものじゃない。僕は流行りに乗らない硬い男ではないが別にあれにはハマらなかった。
そんな僕がハマっているもの…それは「温蕎麦」である。10代の若者にしては随分と渋いものにハマっていると自覚もある。
しかしこの冬の時期、寒い外から家、もしくは蕎麦屋の店内に入り、出汁の効いた温蕎麦に七味を少し振りかけて食べるのがなんとも乙なのだ。
僕はこの歳になり、ようやく蕎麦の美味さというものに気がついた。大袈裟でもなんでもなく日本人に生まれてよかったとつくづく感じる。
蕎麦と同様に美味しさに気づいたものが他にもいくつかある。「ブラックのコーヒー」、「紅茶」、「キャラメルコーン」、「冷奴」…
まあ、ブラックのコーヒー、紅茶は何となく大人になってきて飲めるようになったんだなと思う。あれは小さい頃全く飲めなかったから。
しかし温蕎麦、キャラメルコーン、冷奴はどうだろう。小さい頃好んでは食べなかったが「まあ食べれないことはない」と言ったものだった。味覚が成長したのだろうか?それとも進化??
でもキャラメルコーンは成長とも違うよなぁ…
小さい頃、幼い僕はキャラメルコーンを美味しそうに食べる友達の舌を疑った。なんでこんな気持ち悪い形(カブトムシの幼虫みたいな)のものをニコニコしながら食べているのだろう?とも考えた。
なんで大人達はまずそうな温かいそば、豆腐に醤油をかけたやつを「美味しい、美味しい」と言いながら食べるのだろう。とも。
そっか。潜入感だ。全部幼い頃の潜入感から来てるんだ。幼い頃の僕は自己中心的な性格だった。小学校の頃に友達から色々言われてそれは直ったが…
小さい頃の僕に教えてあげたい「世の中見た目だけで見ちゃダメ」だと。知ってたらこんなに美味しいものを見逃すこともないのに。
そんなことを考えていたら回転の速さが命の蕎麦屋で時間が1時間も経っていた。
以上最近の僕の「申し訳なかった話」でした。
2.俺か僕か
僕は心の中で自分のことを「僕」と呼んでいる。だが対外的には「俺」と呼んでいる。なぜ僕は自分のことを「俺」と呼んでいるのだろう...?
幼稚園の頃、年少の頃までは心の中でも外でも「僕」だった。年長になると「僕」は「俺」へと姿を変えた。周りの友人が全員「俺」だったからだ。ただかっこいいと憧れたのか、周りに合わせなきゃいけないとか思ったのか、あまり覚えていないけどそれが変えるタイミングだったのだろう。
じゃあ、なぜ心の中では「僕」のままなのだろう? 自分のことを「俺」と呼ぶ友人、「ウチ」と呼ぶ女子高生、名前のままで呼ぶナルシスト、全員そうなのだろうか…?
僕は多分「僕」でいたいのだろうと思う。しかし、周りの目や自己顕示欲に憚られて「俺」になったのだろう。それを証拠に僕は自分より立場が上である人間や、初対面の人と話す時は決まって呼称が「僕」になる。自分の中の「僕」が「俺」の足を引っ張っているのだ。
正直、自分の中では「僕」でいたいのか、「俺」になりたいのかはよく分からない。「俺」と自分のことを呼ぶのがかっこいいとは思わないし、「僕」と呼ぶのがダサいとも思わない。でも、「俺」の方が周りの空気に合うことが多いから「俺」と呼んでみる。
このことを仲のいい友人に聞いたことがある。その友人は心の中と対外的な呼称の変わるタイミングは同時だったと言う。彼は「俺」になりたくて「俺」になったのだろう。
僕はこれからも「僕」と呼びたい気持ちを押し殺して「俺」と自分を呼ぶ。多分、呼ばないように気をつけても自然とそう呼んでいる。
小学生の頃は息巻いて「周りに流されない人間になる」とか言ってたけどそれも無理そうだ。
1.真似したがり
今朝、担任から一枚の手紙が配られた。中身は卒業文集についてだった。そろそろそんな時期か…と思いつつ僕の感情はすこぶる高ぶっていた。
先日、少し早めの受験を終え、現在僕は合否結果を待っている状態だ。ただ待っているだけだと気が休まらないと思い、慣れない都会からの帰り道に僕の尊敬するオードリーの若林さん著作「ナナメの夕暮れ」を買い(本当は結果がわかってから買おうと思ってたのだが。)、それを読みつつ結果を待つことにした。
僕は小さいころから「真似したがり」だ。ワールドカップを見た次の日にはサッカーをして無回転シュートの練習をするし、「スパイダーマン」を見た日は1日中糸を出すポーズをして頭の中ではビルの狭間を飛び回ってるし、初めて「沈黙の金曜日(ラジオ番組)」を聴いた次の週にはメールを投稿し始めてた。
そして「ナナメの夕暮れ」を読んでいる僕は今、猛烈に何か書きたい衝動に駆られていた。卒業文集はそんな僕には打って付けの課題だった。
しかし、しかしだ。卒業文集はこれまでの学校生活についてだったり、部活動だったり…縛りがあるじゃないか。僕は自由に書きたいことを書きたい。今日、昼に食べたそばがおいしかったこと、僕が寒がりなこと、見た映画が刺激的だったこと…そういうことから話が広がって…っていうことがしたいのに。
しかも文字数は多くても400文字までということだった。学校生活について本当に言いたいことなんて言い出したら400文字でまとめられるわけがない。(まあ殆ど愚痴なのだが。)なんという鬼畜極まりない課題なのだろう。
そんなことを思い、こうやって卒業文集の愚痴をこぼしつつさりげなくこっそりとコラムを始める僕も僕でなかなか鬼畜極まりないのではないだろうか。